浅間火山の地質と活動史

高橋正樹(日本大学文理学部地球システム科学科)


爆発的噴火を繰り返す浅間火山は,日本を代表する活動的な安山岩質火山のひとつです.浅間火山には広義の浅間火山と狭義の浅間火山とがあります.広義の浅間火山には,黒斑火山,仏岩火山,あるいは場合によっては軽井沢にある離山火山が含まれます.一方,狭義の浅間火山といえば,最近の約1万年間にわたって活動を続けている前掛火山のことをさします.浅間火山は,烏帽子火山から高度火山まで,東西の延長約22キロメートルにおよぶ浅間・烏帽子火山群のうちの,最も若い構成メンバーです.浅間火山の地質は,荒牧重雄らによって詳しく調べられてきました(Aramaki,1962;荒牧,1969など).ここでは,最近明らかにされてきた新しい知見を交えて,浅間火山の地質と活動史に関する最新の見方を紹介したいと思います.

1.浅間火山の位置

 日本列島の東半分にあたる中部地方以東の東日本には,北海道西部から東北地方を縦断し関東地方に至る火山列がほぼ南北に延びています.この火山列の太平洋側には火山が分布しないので,この火山列を連ねた線のことを火山前線といいます.南下してきた火山前線は関東地方に入ると方向を西に変え,那須,高原,日光,赤城,榛名の各火山を経て,浅間火山に至ります.火山前線は,浅間火山付近で再び方向を南に変え,八ヶ岳を通り,富士・箱根から伊豆大島,三宅島,八丈島へと南下していきます.浅間火山は,火山前線の屈曲点に位置する,大変ユニークな火山といえます.

2.浅間・烏帽子火山群

 50万年前以降の浅間・烏帽子火山群の形成史は以下のようなものです(図1・2・3).浅間・烏帽子火山群では,西部を中心に約40〜20万年前頃に,複数の安山岩質成層火山が相次いで形成されました.まず初めに,火山群西端部に位置する大型の安山岩質成層火山である烏帽子火山,小型の安山岩質成層火山である角間・鍋蓋火山などが形成されました.烏帽子火山は,そのほぼ中心部を北西-南東方向に延びる正断層によって切られ,北東側半分が沈降(あるいは滑落)しました.現在の湯ノ丸山の下部の山体は,烏帽子火山の沈降(あるいは滑落)した片割れの一部であると考えられます.その後活動の中心はやや東に移動し,大型の安山岩質成層火山である三方ヶ峰火山が形成されました.三方ヶ峰火山の山頂には,直径700mほどの中心火口の地形がよく保存されており,池ノ平とよばれています.三方ヶ峰火山は,中心火口の一部を含めて,西北西-東南東方向に延びる北落ちの正断層によって切られています.湯ノ丸溶岩ドームや三方ヶ峰火山の北東方に位置する小型安山岩質成層火山である水ノ塔火山も,この時期の後半に形成された可能性があります.三方ヶ峰火山の東方に位置する大型安山岩質成層火山である高峰火山もこの時期のものですが,三方ヶ峰火山との関係については,まだよくわかっていません.現在の高峰火山は,崩壊あるいは侵食によって西半分が失われています.後で述べる黒斑火山の形成時間から類推すると,烏帽子,三方ヶ峰,高峰などの大型成層火山の形成には10万年程度,小型成層火山の形成には1万年程度の時間を要したものと考えられます.

 安山岩質成層火山群が形成された後,おそらくは約20〜10万年前の時期に,東篭ノ登,西篭ノ登,桟敷,小桟敷の,北西-南東方向に配列した安山岩質溶岩ドーム群が形成されました.村上山の安山岩質溶岩ドームも,この時期のものである可能性があります.東部に位置する,溶岩と火砕流堆積物からなる平坦な形態の安山岩質成層火山である高度火山も,カリウム・アルゴン法による年代測定の結果(約13万年前)から,この時期に形成されたものと考えられています(金子ほか,1991).

図1. 浅間・烏帽子火山群の形成史.

図2. 浅間・烏帽子火山群における各火山体の復元図.
大規模な断層崖,侵食崖,崩落崖を除き,すべての侵食谷を谷埋めした状態で表現した.等高線の間隔は100m.灰色部は,大規模な断層崖や侵食崖あるいは崩落崖を示す.黒斑火山では,火山体崩壊による馬蹄形カルデラ壁,断層崖を除き,侵食崖はすべて谷埋めした状態で表されている.緑色は安山岩質溶岩ドーム,橙色はデイサイト〜流紋岩質溶岩ドームを示す.青実線は正断層を表す.浅間・烏帽子火山群は,烏帽子,三方ヶ峰,高峰,黒斑の各大型成層火山,角間・鍋蓋,水ノ塔,高度,仏岩,前掛の各小中成層火山,および10個の溶岩ドームから構成される.

図3. 浅間・烏帽子火山群の鳥瞰図.
上: 南方から眺めた浅間・烏帽子火山群;下: 北方から眺めた浅間・烏帽子火山群.1: 離山溶岩ドーム; 2: 小浅間溶岩ドーム; 3: 仏岩火山; 4: 浅間(前掛)火山; 5: 石尊山溶岩ドーム; 6: 黒斑火山; 7: 高峰火山; 8: 水ノ塔火山; 9: 東・西篭ノ登溶岩ドーム; 10: 三方ヶ峰火山; 11: 小桟敷溶岩ドーム; 12: 桟敷溶岩ドーム; 13: 村上溶岩ドーム; 14: 鍋蓋火山; 15: 角間火山; 16: 湯ノ丸溶岩ドーム; 17: 烏帽子火山


3.黒斑火山の形成

 10万年前以降,浅間・烏帽子火山群の東よりの場所に,高峰,水の塔両火山の東側山複を覆うように,大型の安山岩質成層火山である黒斑火山が成長を始めました.黒斑火山は,主として溶岩の記載岩石学的な特徴および全岩化学組成とその活動時期の違いから,牙・剣ヶ峰・三ツ尾根・仙人の4つの活動期(溶岩グループ)に区分されます(図4・5).浅間火山東麓のテフラ(降下火山灰)層序(竹本, 2000など)やカリウム・アルゴン法年代測定の結果を総合すると,以下のような黒斑火山の形成史が考えられます.

 牙・剣ヶ峰期の噴出物は黒斑火山の山体の大部分を占めていますが,牙期はおそらく10万年前頃には活動を始め8万年前頃には活動を終えており,剣ヶ峰期は,7万年前頃には活動を終了していました.この数万年の間に,溶岩と火砕岩を繰り返し噴出しながら黒斑火山は急速に成長したものと考えられます.黒斑火山南山腹にある安山岩質の石尊山溶岩ドームも,その化学組成と溶岩の層序関係から剣ヶ峰期に噴出したものと推定されます.カンラン石斑晶に富む安山岩を特徴とする三ツ尾根期は,7万年前以降に活動を始め,3万年前頃には活動を終えていたものと推定されます.三ツ尾根期は,それ以前の牙・剣ヶ峰期に比べて,マグマの噴出率は低下しましたが,噴火活動はより爆発的になり,多量のテフラ(火山灰・スコリア)を東麓に降らせました.3万年前以降に活動を始めた仙人期は,噴出物がより珪酸成分(SiO2量)に富むようになり,爆発的なプリニー式の噴火(大規模な噴煙柱が勢いよく空高く上昇し,軽石や火山灰を遠くまで降らせる噴火)を6回あまりにわたって繰り返し,大量の安山岩質降下軽石堆積物を東麓にもたらしました.このテフラは,板鼻褐色降下軽石(BP)とよばれています.こうした爆発的噴火を繰り返した後,黒斑火山はやがて山体大崩壊のクライマックスを迎えることになります.

 
図4. 黒斑・仏岩・浅間(前掛)火山の形成史.

図5. 黒斑・仏岩・浅間(前掛)火山の地質(高橋(1998)による).
東方からの鳥瞰図.1: 黒斑・牙溶岩グループ; 2: 黒斑・剣ヶ峰溶岩グループ; 3: 黒斑・石尊山溶岩ドーム; 4: 黒斑・三ツ尾根溶岩グループ; 5: 黒斑・仙人溶岩グループ; 6: 小浅間溶岩ドーム; 7: 仏岩下部溶岩; 8: 仏岩中部溶岩; 9: 仏岩上部溶岩; 10: 浅間(前掛)火山


4.黒斑火山の山体崩壊

 2万3000〜2万4000年前頃,プリニー式の安山岩質軽石噴火にともなって,黒斑火山の山体が大崩壊を起こしました.崩壊した山体構成物は,北側の吾妻渓谷や南側の軽井沢南部塩沢・佐久平方面に高速の岩屑なだれとなって流れ下り,一瞬のうちに一帯を厚い土石で埋めつくしました.吾妻渓谷に流入した岩屑なだれは,吾妻川沿いにさらに流下し,関東平野に到達してひろがり,現在の前橋や高崎付近を厚い土石で覆いつくしたのです.これらの堆積物は前橋泥流とよばれています.軽井沢方面に流下した岩屑なだれ堆積物は塩沢泥流,佐久平方面に流下したものは塚原泥流,また吾妻川側に流下したものは応桑泥流とよばれています.佐久市岩村田西方の塚原付近に分布する多数の小丘は,この時の岩屑なだれ堆積物の「流れ山」(山体崩壊物の巨大な塊り)です.このあたりでは,岩屑なだれは,当時の山頂から距離にして16kmあまりも流れ下ったことになります.この山体崩壊によって,黒斑火山は西側半分を残してその大部分が失われたと考えられます(図3).現在の湯の平西方の崖は,この崩壊によって形成された馬蹄形カルデラ壁の一部です.

 山体崩壊後も,火山灰の噴出と2回のプリニー式降下軽石噴火が続きますが,2万1000年前頃には,黒斑火山の活動は終了したものと考えられます.

5.離山火山・小浅間溶岩ドームの形成

 黒斑火山の活動が終了してからまもない2万年前頃,現在の浅間(前掛)火山の山頂から約8kmも離れた軽井沢付近に,離山火山が形成されました(中村ほか, 1997など)(図2・3・4).離山はデイサイト〜流紋岩質の溶岩ドームからなる単成火山ですが,溶岩ドームの流出に先立って雲場軽石(火砕)流が噴出し,軽井沢町塩沢から南軽井沢の一帯を覆いつくすなど,爆発的な噴火活動を行っています.この地域にはその後は火山活動がみられませんが,軽井沢付近も活発な火山活動の場に位置しているという事実は忘れてはならないでしょう.

 離山火山の形成の直後の約2万年前に,黒斑火山の東麓から大規模なプリニー式噴火による白糸降下軽石の噴出があり,引き続いて流紋岩質の小浅間溶岩ドームの流出がありました(図2・3・4・5).

6.仏岩火山の形成

 仏岩火山は,厚い溶岩流が重なってできた複成火山ですが,仏岩火山の本格的な形成は,約1万7000年前の爆発的なプリニー式噴火による第1大窪沢降下軽石・軽石(火砕)流の噴出に始まります(図4・5)(中村ほか,1997).仏岩火山の噴出口は,黒斑火山の噴出中心の東側,現在の前掛火口よりもさらにやや東方によった場所であったと推定されます.次いで約1万6000年前に,第2大窪沢降下軽石・軽石(火砕)流の噴出がありました.流紋岩質の仏岩下部溶岩流はこれらの噴火にともなって流出したものと推定されます.

 仏岩火山の噴火のクライマックスは,約1万3000年前に生じた一連の爆発的噴火です.これは浅間火山史上最大規模の噴火であり,約8km3もの大量のデイサイト〜安山岩質マグマが噴出しました.この時の噴火ではプリニー式噴火による板鼻黄色降下軽石(YP)の噴出で始まり,次いで軽石(火砕)流が噴出し,再び降下軽石(嬬恋降下軽石あるいは草津黄色軽石:YPk)と軽石(火砕)流が噴出し,最後にまた軽石(火砕)流が流出しています.嬬恋降下軽石は,噴煙が北方へたなびいたために,主に群馬県側の草津方面に堆積しています.嬬恋降下軽石噴出直後にほとんど時間間隙をおかずに流出した軽石(火砕)流は嬬恋軽石(火砕)流,それ以外の複数の軽石(火砕)流は第1小諸軽石(火砕)流とよばれています(荒牧,1993).第1小諸軽石(火砕)流は,広義の浅間火山で最大規模の火砕流であり,北方では吾妻渓谷を厚く埋積し,また南方では小諸市から御代田町,佐久市にかけての山麓の広い領域を埋めつくしました.現在でもこの地域には,火砕流台地特有の箱形谷地形(田切とよばれる)がよく発達しており,小諸城址はこの火砕流台地の上に築かれています.当時は,この地域一帯が火砕流で覆われた不毛の台地と化したに違いありません.仏岩火山の弥陀ヶ城の崖を構成するデイサイト質の仏岩中部溶岩流は,この一連の噴火時に流出したものと考えられます.安山岩質の仏岩上部溶岩流も,この時の噴火にともなって流出した可能性があります.このクライマックス噴火の結果,仏岩火山の西側山体と剣が峰東側の黒斑火山の山体を含むブロックが,北北西-南南東方向に延びる複数の正断層に挟まれる形で陥没したものと思われます(荒牧,1969).現在の弥陀ヶ城の崖や剣が峰東壁は,その時の断層崖の一部と考えられます.また,車坂峠からトーミの頭を通り,剣ヶ峰の北壁に延びる西北西-東南東の北落ち正断層であるトーミ断層も,この時に形成されたものと推定されます.この陥没運動の結果,仏岩火山の西側部分が失われました.

 仏岩火山からの最後の規模の大きな噴火は,約1万1000年前の総社降下軽石と第2小諸軽石(火砕)流噴出です(竹本, 2000).この時の軽石(火砕)流は,南側山麓では御代田町から小諸市にかけての広い領域を覆いました.御代田町や小諸市は,2000年の間に2回の大規模な軽石流の直撃を受けたことになります.

7.浅間(前掛)火山の形成

 広義の浅間火山の最新の活動は前掛火山(狭義の浅間火山)の形成です.浅間(前掛)火山の形成は8500年前頃に始まりました.テフラからみると,前掛火山の活動は大きく3期に分けることができます(竹本, 2000)(図4).第1期は,仏岩火山の活動が終了してから1500年ほどの静穏期を経て,約8500年前の安山岩質降下軽石の噴出に始まります.7500年前までの1000年間に藤岡軽石など,さらに2回の本格的な安山岩質降下軽石の噴出があり,第1期は終了します.再び1500年ほどの静穏期を経て,第2期の活動が始まります.第2期は,6000年前から3000年前までの3000年間に,六合軽石を初めとする6回の降下軽石の噴火活動が繰り返されました.平均して約500年に一度の割合で大噴火していることになります.第3期は約2500年前に始まります.この時期には噴火活動が大規模になり,4世紀,1108年AD,1783年ADと3回の大噴火を約700年ほどの噴火間隔で繰り返しています.浅間(前掛)火山で現在確認できる溶岩流は,そのほとんどがこの時期のものです.4世紀の溶岩流としては,下舞台溶岩や湯の平溶岩などがあります.浅間(前掛)火山は,この2000年余りの間に急速に成長したと考えられます.浅間(前掛)火山は,現在成長過程にある,まさに青年期の火山といえるでしょう.

 

8.歴史時代の噴火

 古文書に記録されている噴火を,「歴史時代の噴火」とよびます.浅間(前掛)火山の歴史時代の大噴火には,1108年AD(天仁)噴火と1783年AD(天明)噴火があります.

 8-1.1108年AD(天仁元年)大噴火

 1108年AD(天仁)の大噴火は,総噴出量が1km3を越えており,浅間(前掛)火山の噴火史上最大規模の噴火でした(Aramaki,1962; 荒牧,1969)(図6).この噴火は,プリニー式噴火による降下軽石(As-B降下軽石)の噴出で始まり,次いで大量の火砕流が南麓と北麓に流下しました.この火砕流堆積物は追分火砕流とよばれています.北麓に流下した火砕流は,嬬恋村大笹付近で吾妻川に達し,渓谷を厚く埋め立て,一部は溶結凝灰岩となっています.南麓へ流下した火砕流は,軽井沢町追分から御代田町付近の一帯を覆いつくし,湯川に流れ込んで厚く堆積しています.この火砕流は山頂から南北それぞれ12kmもの範囲を埋めつくしたもので,当時の長野原町北軽井沢から嬬恋村東部,および軽井沢町追分から御代田町にかけては,完全に荒廃したものと思われます.軽井沢町から御代田町にかけては,この火砕流から掘り出したキャベツ大の本質岩片を,そのまま石垣などに利用しています.北麓の上舞台溶岩は,このとき噴出した溶岩流です.その後,火山灰の噴出が続きますが,再び降下軽石(As-B'降下軽石)の噴出が生じ,この一連の大噴火は終わりをつげます.

図6. 天仁(1108年AD)噴火噴出物の分布(高橋ほか(2003)より).
実線はBおよびB'降下火砕(軽石)堆積物の等層厚線(単位はmm)を表す.

 8-2.1783年AD(天明三年)大噴火

 1108年ADの大噴火後,1281年ADと1427年ADに噴火の記録が残されていますが,概して静穏だったようです.16世紀に入ると,活動が活発化し,1527〜1532年AD,1596〜1609年AD,1644〜1661年AD,1704〜1733年ADと,間に35〜65年の静穏期をおきながら,ブルカノ式噴火を主とする爆発的な噴火を連続的に繰り返す時期を4回ほど経て,総噴出量が約0.5km3の1783年AD(天明三年)のプリニー式大噴火に至ります(図7・8).1783年大噴火の過程については,荒牧重雄によって詳細に明らかにされてきましたが,最近では安井真也らの研究によって新たに書き変えられようとしています.1783年AD大噴火では,火砕流や岩屑なだれが流下した北麓の群馬県側を中心に,約1400名ほどの尊い人命が奪われていますが,その噴火活動の推移は以下のようなものでした.

図7. 天明(1783年AD)噴火噴出物の分布(Yasui and Koyaguchi(2003)印刷中より).
赤実線は,北方向のものが7月17日の,北東方向のものが7月25日から31日までの,東南東方向のものが8月3日から5日までの,それぞれ降下火砕(軽石)堆積物の等層厚線(1cm)を表す.

図8. 浅間(前掛)火山の1500年AD以降の噴火史(古記録にもとづく).
ブルカノ式噴火が活発なときは,溶岩塊からなる火口底が,火口内の浅所まで上昇している.大規模なプリニー式噴火は,この500年間に1回しか起きていない.

 (1) 降下軽石の噴出

 1783年ADの噴火は5月9日に始まり,轟音とともに噴煙柱が空高く上がって降灰がありました.1ヶ月半ほどの休止期をおいて,6月25日の午前11時頃に噴火が再開し,鳴動をともないながら再び噴煙柱が空高く上がり,各地に降灰がみられました.それから3週間ほどの休止期があり,7月17日の午後8時頃に大きな噴火が始まりました.この時は,火口から北方に10km近く離れた嬬恋村鎌原や大前でも軽石が降って10cmほど堆積しました.7月25日の午前6時頃から噴火の勢いが強くなり,7月31日まで断続的にプリニー式噴火を続けて高い噴煙柱が上がり,主に火口の北東方向に軽石を降下させました(安井ほか, 1997).8月3日の午後2時頃から噴火はきわめて激しくなり,大量の軽石が降下するようになりました.8月4日の夕方から8月5日の未明にかけて噴火はクライマックスに達し,17時間にわたって大量の軽石が主に東南東方向に降下しました.クライマックス噴火時には,噴煙柱は高度約1万8000m以上にまで到達したと考えられています(Minakami,1942).

 (2) 吾妻火砕流の流下

 

 噴火がクライマックスに達すると,立ち上った噴煙柱の根元から,主に北東山麓に向かって火砕流が繰り返し流下し,20枚以上の火砕流堆積物が形成されました(安井・小屋口, 1998a).これが吾妻火砕流です.流れ下った吾妻火砕流は,当時山麓に拡がっていた山林を焼き払いながら火口から8kmの距離まで到達し,現在黒豆河原付近にみられるような一面砂礫に覆われた荒廃地を生み出しました.

 (3) 鬼押出溶岩流の流出

 噴火がクライマックスに達すると,火口付近では,勢いよく上がった噴煙柱から落下した火砕物が厚く溜まり,溶結しながら火砕丘を形成しました.これが現在の釜山です.釜山火砕丘の北側にはきわめて大量の火砕物が堆積したために溶結した火砕物が崩れて再流動を始め,前掛火山の北斜面を溶岩として流下しました(安井・小屋口, 1998b; 井上(素), 2001など).これが鬼押出溶岩です.こうした溶岩のことを火砕成溶岩といいます.

 (4) 鎌原火砕流・岩屑なだれの流下

 

 8月5日の午前10時頃,大音響とともに火砕流と岩屑なだれが高速で流下し,岩屑なだれは火口から15km離れた山麓の鎌原村を襲ってまたたくまに埋めつくし,さらに吾妻川の渓谷に滝のように流れ込みました.鎌原村では466人の命が一瞬にして奪われました.吾妻川に流れ込んだ土石は,大量の熱泥流となって流れ下り,さらに利根川に流入して,下流一帯に大きな洪水被害をもたらしました.この泥流は4日後の8月9日には千葉県の銚子に到達し,太平洋に流れ出しました.鎌原火砕流の層厚はきわめて薄いものですが,巨大な本質岩片が多数まき散らされたように分布しており,そのうちの最大のものは長径30m,厚さ5m近くにも達します(荒牧, 1969).

 鎌原火砕流・鎌原岩屑なだれの成因については不明の点が多く,次のようないくつかの説が提案されています.(a) 巨大な本質岩片を含んだ火砕流が流下し,着地地点の地面を削りとり土砂を押しだすことによって岩屑なだれが発生した(荒牧,1993).鬼押出溶岩はその後火口から流下した.(b) 鬼押出溶岩の流下後,山頂火口付近で生じた爆発的な斜め噴火によって,火口を埋積していた溶結火砕岩が巨大な岩片となって吹き飛ばされ,一部は火砕流として,また一部は放物線を描いて放出された.それらは溶岩流を飛び越え,着地した場所で二次爆発を起こし,地面を削りとり土砂を押しだすことによって岩屑なだれを発生させた.(c) 鬼押出溶岩が流下中に下位の山体の一部が溶岩とともに崩壊し,火砕流と岩屑なだれとなって流下した(田村・早川, 1995).(d) 当時山腹に存在した柳井沼付近でマグマ水蒸気爆発が起こり,火砕流と岩屑なだれが生じて,それが流下した(井上(公)ほか,1994).(e) 鬼押出溶岩が当時山腹に存在した柳井沼を覆い,そこでマグマ水蒸気爆発が起き,吹き飛ばされた溶岩片が火砕流となって流下した.火砕流は下流の土砂を掘り起こし,岩屑なだれを生み出した.この時形成された爆裂火口は,後から流下してきた鬼押出溶岩の別のユニットによって覆い隠されてしまった.

 いずれにしても,特異な噴火である鎌原火砕流・岩屑なだれの成因については,今後のさらなる検討が必要と思われます.

9.最近の噴火活動と長期的噴火予測

 浅間(前掛)火山は,1783年ADの大噴火の後,110年ほどの比較的静穏な時期を経て,1889年から1961年までの約70年間は,ほとんど毎年のように爆発的なブルカノ式噴火を繰り返しました(図8).この期間は火口底に溶岩塊が顔をみせており,火口底の深さも200mよりも浅い場合が多く,1912〜1913年には,深さがほとんど0になり,溶岩が火口から溢れ出しそうになりました.ブルカノ式噴火は,火道から上昇してきたマグマ柱の頭に相当する溶岩の塊が爆発的に破壊されることによって生じます.ブルカノ式噴火では,火山弾,火山岩塊などの噴石や,火山砂(灰)などが放出され,場合によっては小規模な火砕流も流出します.最近の比較的大きな噴火は,1973年と1982年に起こり,小規模な火砕流も発生しました.1990年代は火口底も下がり,溶岩塊も姿を見せず,比較的静穏のまま今日に至っています.

 浅間(前掛)火山では,プリニー式噴火をともなうような大規模噴火は,ここ2000年の間に3回しか起きていません.噴火間隔は約700年です.最後の大規模噴火は1783年ですから,単純に計算すると次の大噴火は2500年AD頃ということになり,当分は大丈夫そうにみえます.しかし,2000年ADの三宅島噴火でみられたように,過去の噴火履歴を必ずしも単純に外挿できないのが,長期的噴火予測の難しいところでもあります.ただ,大規模噴火を起こすためにはマグマ溜りに相当量のマグマの蓄積が必要であると考えると,1783年AD噴火からまだ220年しか経過していないので,マグマの蓄積は不十分であり,しばらくの間大規模噴火はないとみてもよさそうです.ただし,遠くまで火山弾や火山岩塊を飛ばし火山灰を降下させる大規模なブルカノ式噴火や,軽石を降下させる小規模な準プリニー式噴火などはみられるかもしれませんので,それに対する対策は必要でしょう.火山性地震や地殻変動などの観測体制が整備されていれば,こうした噴火の直前予測はおそらく可能です.また,これまで浅間(前掛)火山の噴火ではみられませんでしたし,可能性としてはきわめて低いと考えられますが,最悪のシナリオとして,山頂付近に潜在溶岩ドームが成長し,不安定になった山体の一部が崩壊して岩屑なだれが生じ,それにともなってブラスト(爆風)や火砕流が発生するという,アメリカ合衆国のセントヘレンズ火山1980年AD噴火と同様のタイプの噴火が将来起こり得ることも,視野に入れておく必要があるかもしれません.


引用文献

Aramaki, S. (1962) "Geology of Asama Volcano" Journal of Faculty of Sciences, University of Tokyo, sec.2, 14, 229-443.
 荒牧重雄 (1969)「浅間火山の地質」地学団体研究会専報, 14, 45p.
 荒牧重雄 (1993)「浅間火山地質図」火山地質図6 通産省工業技術院地質調査所
 金子隆之・清水 智・板谷徹丸 (1991) 「信越高原地域に分布する第四紀火山のK-Ar年代と形成史」東京大学地震研究所彙報, 66, 299-332.
 井上公男・石川芳治・山田 孝・矢島重美・山川克己 (1994) 「浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態」応用地質, 35, 12-30.
 井上素子 ( 2002) 「浅間鬼押出溶岩流の噴火に伴う全岩化学組成変化」金沢大学文学部地理学報告, 10, 17-24.
 Minakami, T. (1942) "On the distribution of volcanic ejecta (part 2). The distribution of Mt. Asama pumice in 1783" Bulletin of Earthquake Research Institute, University of Tokyo, 20, 93-106.
 中村俊夫・辻 誠一郎・竹本弘幸・池田晃子 (1997) 「長野県,南軽井沢周辺の後期更新世最末期の浅間テフラ層の加速器14C年代測定」 地質学雑誌, 103, 990-993.
 高橋正樹 (1998) 「浅間火山-天明大噴火の爪あと」,「フィールドガイド日本の火山1<関東・甲信越の火山I>」高橋正樹・小林哲夫編,93-118.
 高橋正樹・市川八州夫・安井真也・浅香尚英・下斗米朋子・荒牧重雄 (2003) 「浅間・前掛火山天仁噴火噴出物の全岩化学組成と天明噴火噴出物との比較」日本大学文理学部自然科学研究所紀要, 38, 65-88.
 竹本弘幸 (2000)「北関東北西部地域における第四紀古環境変遷と火山活動」茨城大学大学院理工学研究科博士論文(手記)128p.
 田村知栄子・早川由紀夫 (1995) 「史料解読による浅間山天明三年(1783年)噴火推移の再構築」地学雑誌, 104, 843-864.
 安井真也・荒牧重雄・小屋口剛博 (1997) 「堆積物と古記録からみた浅間火山1783年のプリニー式噴火」火山, 42, 281-297.
 安井真也・小屋口剛博 (1998a) 「浅間火山・東北東山腹における1783年噴火の噴出物の産状とその意義」日本大学文理学部自然科学研究所紀要, 33, 105-126.
 安井真也・小屋口剛博 (1998b) 「浅間火山1783年のプリニー式噴火における火砕丘の形成」火山, 43, 457-465.
 Yasui, M. and Koyaguchi, T. (2003) "Sequence and Eruptive Style of the 1783 Eruption of Asama Volcano, Central Japan: A case study of anandesitic explosive eruption generating fountain-fed lava flow, pumice fall, scoria flow and forming a cone." Bulletin of Volcanology, in press

 


公開講座03目次へ      ・NPO法人日本火山学会ホームページへ
2003年10月,日本火山学会: kazan-gakkai@kazan.or.jp